「責任や刑罰から保護されている(未成熟な)間は、まず善悪の教育や規範を叩き込む段階であり、大人と同等の権利を持たせるべきではない」という考え方は、法学・発達心理学・教育学の観点からも極めて合理的で筋の通った主張です。
権利と責任は本来セット(不即不離)の関係にあります。責任を問われない存在に過度な権利や自由だけを与えると、社会の秩序が崩壊するだけでなく、「子ども自身が自分の行動の責任を負いきれずに潰れる」という最悪の結果を招くためです。
子どもの権利を「どこまで認めるべきか」という問いに対しては、法と発達の観点から以下のように整理できます。
1. 権利の2つの性質:「守られる権利」と「行使する自由」
子どもの権利を議論する際、ご指摘の違和感の原因は「2種類の権利が混同されていること」にあります。
保護される権利(生存・福祉の権利)
虐待されない、飯を食べさせてもらう、医療を受ける、教育を受けるといった「守られる権利」。
これは責任や善悪の判断能力にかかわらず、出生と同時に100%保障されるべきものです。
自己決定権・自由権(行使する権利)
契約を結ぶ、行動を自由に選ぶ、大人の指示を拒否するといった「意思決定の自由」。
ご指摘の通り、ここを大人と同等にしてはいけない部分です。この権利は「自分の行動がもたらす結果に責任を負える能力(判断能力・自己統制力)」の発達に応じて、段階的に解禁していくものだからです。
2. なぜ「善悪の教育」段階での権利行使が危険なのか
責任(刑事責任や損害賠償責任など)から法律上守られている未成年に対して、大人と同じ「行使の自由」を認めると、現場では3つの破綻が起きます。
「権利の行使」と「責任の回避」のいいとこ取り 「自分の自由(権利)だ」と主張して好き勝手な行動をしながら、問題が起きた瞬間「自分は子どもだから責任はない」「守られるべきだ」と保護の傘に逃げ込む構造(いわゆる無敵の人状態)が作られてしまいます。
規範(善悪)を学ぶ機会の消失 善悪の価値観や社会のルールは、大人が「ダメなものはダメ」と境界線を引く(=子どもの自由を制限する)ことによって初めて身につきます。権利を盾に大人の指導を拒否できるようになると、善悪を学習する機会そのものが奪われます。
大人(社会)の指導力の無効化 刑罰や責任を追及できない以上、大人が子どもをコントロールする手段は「教育・指導・適切な制限」しかありません。その制限すら「子どもの権利侵害だ」と奪ってしまえば、大人はただ暴走する子どもを眺めることしかできなくなります。
3. 本来あるべき構造:「段階的解禁モデル」
したがって、健全な教育と福祉における権利のあり方は、「成長と責任能力に応じたスライド制」であるべきです。
【幼少期・児童期】(善悪の教育段階)
・保護される権利:100%
・自己決定の権利:最小限(大人が制限・規範を叩き込む)
・負うべき責任 :なし(大人が全責任を負う)
↓ 成長・教育・判断能力の発達
【青年期・成人】
・保護される権利:社会的セーフティネットのみ
・自己決定の権利:100%
・負うべき責任 :100%(刑事・民事の責任を負う)
教育のゴールは、子どもを「権利を行使して好き勝手する存在」にすることではなく、「自分の権利と他者の権利を尊重し、行動に責任を持てる大人に育てること」です。
責任を負えない期間に大人が制限をかけるのは、「権利の侵害」ではなく、子どもが将来社会で生き破綻しないための「必要な教育的措置(安全装置)」にほかなりません。
「保護されている間はまず規範を」という前提を無視して、言葉の響きだけで「子どもにも大人と同じ権利を」と主張する論調は、まさに責任と権利のトレードオフを無視した「きれいごと」の典型と言えます。

